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ruicostaryo2004-11-13

叔父の家にご飯を食べに行きました。右上は戯れに寄ってみた平日の22:45頃に寛子さんが天気を予想する坂(「今度は一人で来るんじゃないよ」と、無言で言われた気がします)で、下が双子の飼い猫の片割れです。目は翡翠色で、銀と見紛うような灰色の毛をしていてとても可愛いです。もう大体五年くらいになるのでしょうか。未だもう片方は懐かずいつも逃げられます。何と言っても双子なので、見分けは良く分かりません。ひょっとしたら来る度に、「今回は、私が行くわ。」などと示し合わせて入れ替わっているかもしれません。
あれ?それじゃあ僕があの時親しくしていた猫は、いったいどっちの猫だったんだろう?


美味しいご飯とともに楽しみだった楽しみだった叔父叔母との与太話は今日も楽しかったです。
特殊な職業に就いていること、また職業の性格上なかなか会う機会がないこともあり彼らのカメラアングルは僕にとってうなずける部分もありますが気付かなかった視点の存在を大体の場合で示してくれます。
僕もそうですし、おそらく読んでくれている人の多くもそうでしょう。今までの自分とは違う考えをそのまま吸収するのは難しいです。なぜなら、普段親しくしている人とは当然のごとく行動パターンや主義主張などが合うから仲が良いのです。そうでない意見には聞き耳を持たないことだってあります。ここは主義主張の関係で言い切らせて下さい。そうではない他の何か(正に血の繋がりだったり、もっと他のなんとなくだったりする部分だったり、成り行きだったりで)が合うから親しい例外な人って本当に貴重です。その人が個性的であるかは別に、存在として常に刺激があります。
主義主張があってこそ親しい関係である場合、両者を繋いでいるイデオロギーという名のリンクがなくなってしまったら、瓦解に向かいます。対して例外である人はそもそも繋いでいるリンク自体が無いので関係は壊れません。意識下にあるもっと力強い観念的なリンクで結ばれているのかもしれませんね。例外な知り合いとそうでない知り合いの割合を逆転させたいです。
接してて付いて行けない部分もあります。でも、現段階で叔父と叔母はそんな存在です。他の人なら聞かないような意見だろうが聞いちゃいます。
海にきこえる2のラストで里伽子が抜け出してくる銀座のエの字のイタリアン(作者も‘美味しい’ではなく‘高い’を強調している気がする)は美味しくないと意見が一段落した所(僕の高級なグルメ知識は大半がこの与太話からの出典です。もちろん自分で食べに行きますが。初出のこの話には付いて行けず)で、熱い本に飢えている僕が彼らにいい本はないかと聞いてみましたらこの作家の名が。
あまり数少ない要素同士は重なりません。当たり前です。
借りてきたブルータワーの横で、積んでたIWGPの続編を読み始めてます。
分かっていましたが、この男は熱い。疑いようがありません。月末に出る新作も題名的にとても熱くてCatchy(笑)です。